新米妊婦とその配偶者へのアドバイス
そろそろまとめとくか。とくに今回経験したことから意外だった点とかをピックアップ。
(1)胎児の様子はビデオに残せる
病院でエコー写真をもらってくるのはよくある話なのだが、病院によってはVHSビデオテープを持ち込めばビデオ映像をもらえるところもある。いまどきビデオテープを探すのも大変かもしれないが、それだけの価値はある。
ただし、エコーで撮影した画像を3D写真に加工したやつはちょっと不気味なのであんまりおすすめできない。
(2)骨まで愛して
エコーで撮影された映像には胎児の骸骨が映ることがある。かみさんはギャーと叫んで笑っていたが、確かに笑えるくらい不気味な髑髏画像になる。それはそれでかわいいので、お楽しみに。
(3)病院の嫌な客
たまに見かけるのが、妊婦の付添でやってきた親や配偶者が、自分の娘や嫁に夢中になって、他の妊婦さんに席を譲ったりすることもなく、待合室にどっかと座りこんでいるケース。いろいろ心配事もあるんだろうけど、自分は元気なんだろうから、席くらい譲ればいいのに。
(4)胎児のサイズはわからない
胎児の体重は大腿骨の成長具合で推測して計測される。だから、だいたいの値になる。と、まあつまらないダジャレが言いたかったのではなく、推測値なので、出産直前になっても(推定)体重が増えずどうしようと悩むケースが結構あるようだ。うちの場合、2500グラム以下といわれてかみさんが相当落ち込んでいたのだが、結局産まれてみれば2900グラム以上あった。これは、エコーで撮影された大腿骨がそもそも動きまわっていたり、斜めから撮影されていたりして、ちゃんと長さや太さを測ることができないから生じる誤差が原因なので、途中経過で特に問題がないなら、あまり気に病む必要はないらしい。
(5)準備教室は意外と面白い
区で開催する準備教室とやらに参加してみた。入浴や着替えの実習を人形相手にやるわけだが、けっこうリアルな人形なのでいい練習になる。しかし、うちでは結局ここで習ったようなちゃんとした入浴方法はほとんど(たぶん数回しか)やっていない。風呂場でバスタブに腰かけて太ももの上に赤ん坊をひっくり返してシャワーでざぶざぶ洗ってもぜんぜん嫌がらないしむしろ気持ちいいみたいなのでずっとそうやっている。顔にお湯がかかってもへっちゃらだ。たぶん、おっかなびっくり入浴させると子供の方が何やら異様な雰囲気に気圧されてしまうのだろう。適当にちゃっちゃか洗ってやるとあっけらかんとしたものである。
(6)父子手帳というものがある
申請すれば保健所から父子手帳というのがもらえる。妊婦の様子や出産の様子を書き記したり、そのあたりの生活の心得なんかを読んだりするのに使う。
(7)おならぶー
どんなにオシャレなカップルも、妊婦のおならには耐えなければならない。というか、腸が圧迫されているので、妊婦はたとえアンジェリーナ・ジョリーであってもみんなうっかりぷーすかおならをするものである。これまでどんなに隙のない美女を演じていても、この運命からは逃れられない。どのみち、出産なんておならぷーどころの騒ぎじゃないので、ここら辺で人生を一度清算しておいた方がいい。
(8)事前の打ち合わせが重要
破水した妊婦を前に平然としていられる人間はそうそういないので、事前に入院時の用意は済ませておくのがベスト。それから、いくつかの事項については必ず妊婦と配偶者の双方のコンセンサスを得られるよう、協議しておく必要がある。たとえば、腰の揉み方。下手な揉み方ややる気のない揉み方ほど妊婦を激怒させるものはない。
出産時の妊婦は、自分がこの世で最も不公平かつ苦痛に満ちた扱いを受けていると考えるし、それもあながち間違いともいえない。そのため、日ごろの不満、現状への不満、将来への不満を何の躊躇もなく次から次へと叫び散らすことだって大いにあり得る。その際、付添人に出来ることといえば、少しでも(数千本の針の山から2本くらい短いのを抜く程度だが)苦痛を和らげるための努力として、妊婦の腰を揉むくらいしかない。その際、少しでも揉み方が気に入らなければ、阿修羅と化した妊婦にここぞとばかりに罵倒されることになる。正直いって、配偶者としては何の痛みも感じないし、せいぜい夜中に起きているとか、じっと座っていておしりが痛いとか、そんな程度の負担しかないわけだから、出産期間のすべての暴言については、事前の取り決めで後でなかったことにするよう約束しておくことをすすめる。そして、腰の揉み方については、やはり事前の取り決めで必ずその方法を確認し、それに沿ってひたすら飽くことなく揉み続けること。ここでうっかり他のことに気を取られて揉み方がまずかったり、事前の取り決めをぼんやりして聞き流していたりすると後々まで非難されることになる。だが、その非難に応酬することなど、出産に立ち会ってしまった人には決して出来ない。特に、相手が苦しんでいる中で食べられなかった病院食をかわりに平らげたりしていた人ならば。
とにかく、出産時にしてもらいたいこと、してはいけないことは事前に確認し、この期間中のあらゆる暴言については出産後になかったことにするという取り決めを結んでおくことが重要だ。正気と理性のなくなった相手を許すことは、そんなに難しくはない。
(9)面会謝絶!
出産直後に見舞いに来るのは非礼も甚だしい。出産を終えた元妊婦だって、尻の毛まで逆立つほどいきみかえっていたばかりで、他人を迎えて挨拶なんぞしたくはないはずだ。化粧もせず髪はぼうぼう、疲労の極みで作り笑顔も満足にできやしない。やっと出てきた我が子を、病原菌だらけの外の世界からやって来た連中のおぞましい手で撫で回されるなど冗談じゃない気分なのだ。だから、せめて数日は最小限の見舞いしか受け付けないよう、配偶者も注意すること。
(10)30歳にもなれば誰だって
子供の成長は人それぞれである。何か月で寝返りをうつ、何か月で歯が生える、など平均的な指標はあるのだが、当然ながらそれは個体差があり、多少早かろうが遅かろうが本人の才能に大きな影響があるというデータはない。どうせ30歳くらいまでにはハイハイくらいできるようになるので、この時期の成長の早さに関する心配のほとんどは無駄である。もちろん、病気その他については真剣に心配する必要があるが、ハイハイもせず突然つかまり立ちするようになるうちの赤ん坊のように、人間にはそれぞれの成長過程というものがあり、それが他と多少違うからといってギャーギャー騒ぐのは愚かというものだ。だから、この手の話題にはいつも「まあ、30歳くらいまでにはなんとかなるでしょ」と返事することにしている。
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企業における差別
ここギコを読みながら思い出したのだが。
先日、社内ミーティングで、会社の主力製品のコーディング作業にプロパーの社員だけでは手が足りないため、現在業務委託で社内に常駐してもらっているメンバーから誰を追加でアサインするかが議題になった。開発のマネージャたちが集まり、コーディング担当者の力量や経験を加味しながら誰が適任か議論していたのだが、だいたい3人くらいに候補が絞られてきた頃、出席者のひとりであるXXマネージャが突然「Aさんはダメですよ、リスクが高いです」と言い出した。あまり技術的な知識がなく、特にPHPのウェブアプリケーションについてはほとんど経験がない人で、開発に絡んでもいないだけに、なぜそんな頭ごなしに否定するのか驚いた他の出席者が理由を聞くと、いたって簡単、そのAさんが中国人だからなのだそうな。曰く、中国は著作権についての意識が日本とは違うから、ソースコードを持ち出されるリスクが高くて云々。一同ギョッとしていると、XXマネージャは今度は「そういえばBさんって結婚してますよね?」と質問して、「だったら滅多なことはしないという抑止力も働くか…」とひとりごちていた。
ごくありふれたミーティングが、国籍または人種による差別、結婚の有無による差別の現場となった瞬間である。
同類と思われるのも嫌なので、XXマネージャにそのことをたしなめると、もちろんそういう意見が差別といわれてしまうかもしれないことは知っているという。しかし、ビジネスの厳しい世界では現実的な対処が必要であり、決して差別を助長したりするつもりはないとかなんとかごちょごちょつぶやいてひとりごちていた。基本的に他人の話を聞かない人なのだ。
で、まあ、言い訳としては、そりゃそうだろう。この手の差別というのは、露骨な他人への嫌悪感の表明としてよりは、現実社会の問題をかんがみると致し方がないリアリスティックな対応なんだよ、仕方がないんだよ、という世間知として、「野暮は承知で」表明されることの方が多いかもしれないくらいだ。あるいは、ときには他人への気遣い(「左翼の宣伝に騙されてあの劣等な連中に付き合わされてるキミはかわいそうな人だよ」)として、またあるときには科学的な知識の一端として語られることもあるかもしれない。
だが、バカがおのれのバカを認めてもバカがなおらないように、差別を差別と認めても、差別がその心から消えるわけではない。もし仮に、いやこれはあくまで仮にだが、致し方なくしてしまっている差別というものがあるとして、それが間違った知識の上に成り立った単なる偏見でしかなかったら、それでも致し方なくしてしまっている差別といえるだろうか。
なんでも政治的に正しいのがいいのかというと、まあそうでもないんだろうが、しかし世間知やおせっかいな気遣い、似非科学でわれわれが判断を誤らなければならない理由はどこにもない。ソースコードの持ち出しリスクはどこの現場にもきっと常に一定して存在しているのだが、では社内の中国人のメンバーがもし持ち出しをするとしたら、それは彼が中国人であることに原因があるのだろうか。彼女が結婚していないことにその原因があるのか。本当にそうか?管理者のはしくれとしていわせてもらえば、そんなのは管理者の言い訳をおのれの差別的意識で塗り替えただけの戯言でしかない。じゃあ聞くが、中国の地方出身者である彼がコンビニでバイトしたとして、その金を仕送りにしたら彼の家族は裕福な暮らしが出来るかどうか、あなたは知っているだろうか。今の仕事がなくなった時、彼は国に帰ってすぐに仕事にありつけるのかどうか知っているのだろうか。彼の日本でもらっている給料が、中国で同じような仕事をしたときにもらえる給料と比べてどれだけ違うというのか。じゃあ中国についてそんなに詳しいってんなら、ワルシャワの物価がどれくらいか、ベッドルームが1つのアパートの家賃がどれだけ高いのか知っているだろうか。ちょっとくらい金持ちがいっぱい住んでる国で生まれ育ったくらいで、相手のことをほとんど何も知らないくせに、どっかの負け犬経営者がおのれの無能と向き合うのが嫌で言いふらした宣伝に乗せられて、他の国のことを見下して知ったようなことばっかりいってんじゃねえぞおっさん。
と、いいたいことはたくさんあるのだが、でも結局自分はXXマネージャの親でも親戚でもなんでもないし、彼がそんな世界観を抱いて周囲を見渡して脂ぎった雑念で魂の芯まで汚れきっていたとしても、はっきりいって手助けする義務も義理もないのでどうでもいいのだが、先に書いたように自分も同じような人間のクズだと思われたくなかったので、会議では思わず声を荒げてしまった。
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夏休み最後の日は親も大変
今の小学校では、夏休みの宿題、たとえば算数とか漢字のドリルなどは、親が採点するようになっている。厚紙に印刷されたカードにドリルをやった日付と点数を記入する欄があり、そちらに親が点数を書いて提出するのだ。
20年くらい前は、採点するのは教員の仕事だったはずだ。ずいぶんと世の中も変わったものである。
こうなると、8月31日までめいっぱい遊んでいた子供を持つ親は大変である。夜遅くまでなんとか宿題を終わらせても、その後でこのたまりにたまった宿題を採点をしてやらないといけないのだ。うちの場合、なんだかんだと採点できるようになったのが夜遅かったので、結局夜中の2時までマルやバツをつけるはめになった。
確かに30人もの生徒の宿題を採点するのも大変だろうが、仕事なのだから可能なスケジュールを引っ張って作業すればいいことだし、これがいったいなぜ親の仕事になっているのかよくわからない。ゆとり教育とはよくいったものである。
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ブログを書く人、書かない人、書けない人たち
スタンリー・フィッシュのブログがニューヨークタイムズ(ヌータイ、と略すとスポーツ紙テイストになる)のサイトで公開されているので、ときどきふーんと流し読みする。別に感想とかはないんだけれども、スタンリー・フィッシュといえば、それはもう筆者のような世代にとっては断然テリー・イーグルトンなわけで、彼のサイトはないものか探してみたが、Wikipediaからリンクされている大学のサイトくらいしか見つからなかった。今はマンチェスター大学で教えているとのこと。どうやら本人はあまりこういうパソコンとかは好きではないらしい。自伝『ゲートキーパー―イーグルトン半生を語る』で多作が悩みであると語るだけに、書いたら書いたできっと面白いものが読めるだろうが、研究者という彼の立場を考えると、そんな書き物より研究ともっとまとまった著作に時間を費やしてもらう方がありがたい。
フィッシュと並ぶイーグルトンの敵(二項対立イエーッ)、リチャード・ローティも特にそういうのはやっていないみたい。
著名な哲学者のブログってどんなのがあるんだろう、と調べてみて、二人目にデリダをググッて「あれそういえばもう死んじゃってたっけ」と気づく。リオタールもクワインも亡くなってるのね。トマス・ネーゲルも書いてないみたいだし、スラヴォイ・ジジェクもない(リンク先はドキュメンタリーのトレーラー)。結局見つかったのは
ジュリア・クリステヴァ(うーん別に見たくはないなあ)。
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無知
うちの前に福祉園という障害者施設があって、作業をしたり、ヘルパーの人と散歩したりする人たちの姿を毎日見ている。ときどき、嬉しいときに大声で叫んだりする人もいて、息子も最初は驚いたりしていたようだが、今ではすっかり慣れたようだ。バザーのときには、かみさんがクッキーなんかを買ってきてくれたりする。
ところが、ああいうところで売っているものを食べるのなんか嫌だという人も世の中にはいたりする。誰かがヤク中のオッサンみたいにだらだら涎を垂らして鼻くそでもほじりながらパンを焼いたりしていると思っているのだろうか。実際には、監督者の下でみんなが与えられた仕事をきれいな作業場でやっていたりするのだが、見たことがないから知らないのだろう。あるいは、いわゆる健常者が3秒以内なら落としたものでも平気で使っているようなひどいお菓子工場を知っているから、健常者のやることだから施設の人たちだってみんなやってるに違いないと思っているのかもしれない。それはそれで悪くはない考え方だ。
最近うちの近所でも老人施設の訪問が始まっているらしいが、障害者施設も近所の幼稚園や小学校と交流して、子供らに体験学習させているのはとてもいいことだと思う。なぜなら、お母さん連中の中には(お父さん連中の意見を聞く機会がなかなかないのでそれしかわからないが)、うちの近所の障害者施設のことをとても怖がっている人もいるようだから。
かみさんが要望を出していたが、まだ受け入れられていない。老人施設にしても、小学校に和室があるのでそこをサークルの茶室にしているだけで、実態はとても交流とは呼べないものだ。こちらもかみさんが意見書を出していた。
恐怖感というのは、それが実際に身の危険に関わる反応(高いビルから下を見下ろすと体がすくむ、歩道のない道路の脇を歩いて車が近づいてきたら立ち止まるなど)でない限りは、基本的に無知や蒙昧からくるものだ。これは差別にも共通するのだが、むやみに何かを怖がる人やあからさまな差別をする人は、その対象についての知識が極端に不足していることが多い。同性愛者を忌み嫌う人が持っている同性愛者についての知識は、テレビに出てくる不気味ないわゆるニューハーフくらいが関の山で、それどころか、同性愛者と小児性愛者を混同しているなど、お話しにならないほど実態とかけ離れたイメージしか持っていない。
もちろん、知らないこと自体は単なる生活の中での小さな過失でしかないのだが、どんな過失も長年続けていればブタ箱行きだ。
また、人間はおのれに都合のいい情報を積極的に収集するという、生活知というか、快適な生活のための無様な習性というようなものが備わっていて、無知や差別という自己省察を避けるためには嘘ばかりの情報を互いに交換し合って、障害者施設の食べ物は汚いだの、幼児にイタズラをする変態の同性愛者が大勢いるだの、そんな裏付けのない情報を溜め込んで恐怖に打ち震えるふりをして、形骸化してしまった精神生活をなんとか住める程度に保っている。つまり、飛び交っている情報の量は多いのだが、まるで話者と話者しかいないみたいに、お互いの出している情報はもはや別の次元の価値しかないものになっていて、そこで交わされているはずの会話の話題となっている存在の実態についての考察はもうどこにも入り込む余地がない。
ところで、互いの話を聞かないことについては知的な連中にしても同じことで、互いに論戦している右翼は左翼の本など読まず(表紙と帯と献辞と前書きの一部は除く)、左翼は右翼の本なんかバカをより深く知るための資料としてしか読まない、といったら、これも実態とかけ離れた妄言なんだろうか。
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Listen, little men!
日曜日に子供と遊ぼうとしたら、あんまりいい顔をしない。ボールを投げてやっても、すぐにふてくされてゴロゴロ転がるし、なにをやっても駄目だ。挙げ句の果てには、「お友達に電話して、誰かいたらその子と遊びに行こうかな」などと言っている。
いろいろ話を聞いたりしたが、理由はいたって簡単だった。母親曰く、「お父ちゃんは体が大きいから怖い」のが理由だそうな。息子は背が120cm足らずで、こちらが190cm。無理もない、という見方も出来るが、それを言われても困るというところでもある。お前はこれからもある程度なら背も伸びていくのだろうが、こちらはせいぜい老化現象でいくらか縮むくらいしか歩み寄りは期待出来ない。自分の力で解決することが出来ないのは大変もどかしく、苛立たしいものである。
結局、子供もなんだか居辛そうに通信教育のおもちゃをいじっているし、そんな様子を見て子供の母親(妻ともいう)は不安で一杯の犬みたいな顔になってしまい(注:犬は基本的にかわいい動物だから、これは別に一方的な悪口や悪意的描写ではないよな)爪を噛んでいるので、こんな崩壊家庭的な雰囲気に耐えかね、Bloggerに変なJavascriptを追加するのはやめて外に出て子供と遊ぶことにした。午後2時を少し回ったところで、そんなに寒くはなかった。この冬の東京にはまだ雪が降っていない。妻がいうには、寒天は冬に降雪が足りないと甘みが出ないらしい。今年の寒天栽培農家は大変だろう。ところで、寒天に甘みなんてあるんだろうか。それに、寒天栽培農家って本当にどこかにあるんだろうか。
外に出ると、子供は屈託なく駆け回って楽しそうにする。自転車に乗るのもだいぶ上手になった。去年からもう補助輪なしで自転車に乗れる。今の自転車はデザインにひどい問題がある(星条旗柄の自転車だ。ウゲッ)ので、誕生日に新しいのを買ってやろうと思う。我が家のコンセプトに合っていない。
道路工事の脇を抜けて小学校まで遊びにいくことにした。途中、バス通りの歩道で、以前近所の公園で息子と一緒に遊んだことがある女の子が、おじいさんと一緒に歩いているのを見かけた。息子と同じ学年で、確かマイちゃんという名前だった。去年の夏に、手に装着したプラスティックの板に吸盤で覆われたボールをくっつけてキャッチボールをするおもちゃを家族旅行で出かけた鎌倉の海岸で拾って、しばらく遊んでいたら壊れてしまったのだが、同じものを妻が100円ショップで見つけたので新しいのを買って公園でやってみた日に、どこからともなくふらりと公園に現れたマイちゃんも一緒に遊んだのだ。久しぶりに見かけたマイちゃんは、別にどこといって変わった様子もなく、その時は日曜らしい光景だな、としか思わなかったが、後でちょっと事情が違うことがわかった。
小学校は日曜日には子供や親たちが自由に校庭を使えるようになっている。ボールやバット、テニスやバドミントンのラケットなんかも貸してもらえる。多分ボランティアか守衛さんなのだろうが、ビッグママみたいな風貌のおばあちゃんが管理していて、署名するだけで使える。見ると近所の子供たちも幾人か集まっていて、それぞれサッカーだのバスケットボールだの、好きな遊びに興じている。午前中には大人が野球をやっていたようだ。体育館では大人たちがバレーボールの練習中。いわゆるママさんバレーというやつだ。まだ体の動くママさん限定。子供と遊んでいるのであまりそちらの方は見られなかった。バレーボールは、(背の)高さという絶対的な差別が存在する厳しいスポーツなのだが、たくさんの人たちが愛好しているところを見ると、何かそれを超越した魅力があるのかもしれない。ネットを下げると閾値も下がるし。
しばらく子供と校庭でボール遊び。楽しそうで何よりだ。野球の次はドッヂボールと言い出したが、二人でどうにかなるものではないので、ボール投げをする。どうもルールがおかしいので、子供の遊びによくあるような、なんというか、なぜか夢中になってしまうようなあの遊び独特のマジックがうまく出ない。
すると、向こうから息子と同じような背丈の男の子がサッカーボールを蹴りながらやって来て、実際に同級生だったのだが、その子も誘って人数を増やしてみる。その子の後ろからマイちゃんも走って追いかけてきていたので、さらに人数を増やして2対2でどうにかドッヂボールっぽくなった。それからもう一人、いがぐり頭の活発そうな男の子がやって来たので、男の子3人チームと大人+マイちゃんチームに分かれることにした。さっきのおじいさんは見当たらなかった。
息子以外の男の子たち2人は、マイちゃんのドッヂボールの腕前を熟知しているらしく、マイちゃんがボールを持つと1mくらいの距離まで近づいてあれこれ挑発してくる。実際、左利きのマイちゃんはボールを投げるときに、右足を出して、左足を出して、どっちが前にくるのか迷って、それから両足をそろえて、宙に押し出すようにボールを放り上げる。だから、それくらいの距離になる冒険しないと、当たる可能性がゼロなので勝負にならないのだ。息子はというと、チームメイトのそんな姿を見てから、ちょっと遅れて自分も近づいて、おずおずと、やがて大胆に挑発している。普段から石橋を叩いてお母ちゃんの顔色をうかがう、彼の性格がよく現れていると思う。誰もマイちゃんからボールを取ってすぐに当てるような野蛮な真似はしないのがいい。
ところで、4人の子供たちのうち、息子を除いた3人が左利きだった。地獄のジミ・ヘンドリックスもびっくりだ。
子供たちが飽きてきたところで、いがぐり君のお父さんがやって来て、大人二人を加えてサッカーをすることに。息子を除いた男の子たちはサッカーが好きで地域のチームでもやっている様子。チーム編成はサッカー小僧たちといがぐり君のお父さん、うちの親子とマイちゃんになる。大人はゴールキーパー専門。圧倒的に不利な編成だ。しかし、いざゲームが始まってみると意外にも素人チームが健闘する。技術では勝てないので、後ろからとにかく褒めまくっていると、だんだん試合のようなものになってくる。うちの息子は喘息ですぐに息があがってしまうが、疲れただのもうやめようだのと泣き言を並べながらもなんだかんだとちゃんと相手についていく。ときどきズルをした父が相手のシュートを奪い、諦めて立ち止まっている地点が絶妙な息子にパスすると、一気にチャンスになってしまう。ゴール前で足がもつれて強いシュートは打てない詰めの甘さが息子の個性ではあるが。一方、マイちゃんはゴールのそばでキーパーにぶら下がったりして甘えているが、気が向くとボールを持っているプレイヤーに突進して、意地悪をしてボールを取り上げるかのように粘り強く足を出して、技術では圧倒的に上回る相手のドリブルを不思議な力で食い止める。予想がつかないディフェンスと、泣き言を並べながら攻撃する不可解なオフェンスに、明らかに戸惑うサッカー小僧たち。結局ゲームは1対0でサッカー小僧たちの勝ちになったが、みんな面白かったと口々にサッカーを讃えていた。
次は野球ということで、子供たちがベースやらバットやらを借りてきて即席の野球場を整備する。宇宙から見たらまあ野球場に見えなくもないような位置に4つのベースが置かれ、さっきと同じチーム編成で試合が始まる。サッカー小僧たちは野球をやらせても上手で、特にいがぐり君のバッティングは他の子たちと比べて(いがぐり)頭ひとつ秀でている。お父さん軍団の巧みな空気の読みと手抜きにより、なかなか白熱した試合展開になった。野球好きの息子はずっとピッチャーをやっていた。技術的には、1年生でちゃんと狙ったところの近辺に投げられるのだから立派なものだ。敢えて欠点を挙げるとすれば、打たれてくるとどんどん意欲が低下するのが問題だろう。打たれ弱いピッチャーにはいくつかパターンがあって、打たれるとカッカして冷静さを失い、どんどん投げ急いで火だるまになるまで打たれ続けるタイプと、打たれると意気消沈して集中力を失いこれまでの努力を台無しにするタイプに大別されるが、息子は後者に近い。統計的には、長打と四死球はピッチャーの責任で、その他は単なる運に過ぎないので、ピッチャーは自分の責任だけを果たしていれば後は何も気にする必要はない。そういう意味で、連続被安打のプロ野球記録保持者にして40歳の現役投手、吉田修司は本物のプロだ。
しかしマイちゃんのプレースタイルはもっと独特である。なんといっても、投げられたボールの全てを振る。どこに投げられようがおかまいなし。そんな小さなことには一切とらわれない。初球から積極的に振れ、だの、どんなボールにも食らいついていけ、だの旧態依然とした指導方法を信奉する人たちも、この姿を見れば別の言い訳を考えざるを得ないだろう。ピッチャーのいがぐり君もそんなにコントロールがいいわけではないので、必然的に三振の山になる。マイちゃんの問題は、まあその超越的な選球眼なのだが、一方で素晴らしいのは、その超越的なメンタル面の強さである。三振くらいでは一切動揺せず、周囲の「また三振だ」という(特にチームメイトで主力選手でもあるうちの息子の)ガッカリ感にも何の痛痒も感じないで、しかもときどきバットにボールが当たると全力で一塁ベースまで走って見事ヒットになり、とても嬉しそうにしている。ある意味で、精神的にこれ以上プロ向きな選手もいないだろう。もっとも、超然さのあまり勝負への執着がなさ過ぎて、鼻歌をうたいながらときどきどこかに消えてしまうのが気がかりではあるが。
試合は一進一退の攻防が続いたが、逆転された直後に相手チームの子が投げたボールが息子の顔に当たり、息子が泣き出してしまったところで時間切れとなってしまった。たかだかゴムボールなので怪我をしたくても出来るようなものではないが、まあ当たった本人としては例の意気消沈と合わせてショックだったのだろう。当ててしまった子もかわいそうなのでさっさと泣き止んでほしかったが、人間いったん泣き出すとそう簡単に止まるものでもないので、いくら説得しても泣き止みそうにない。後日にでも本人にちゃんとフォローしてもらおう。一方、超越的なマイちゃんはというと、試合も終わったので今度は敗戦投手の息子を慰めているその父の背中によじのぼって大はしゃぎしている。マイちゃんを乗せたまま後片付けをして、さて帰ろうという段になって、ふと、この後マイちゃんはどうするんだろう、そういえば一人で来ているのはマイちゃんだけなんじゃないか、と気づいた。いがぐり君はお父さんがいるし、もう一人のサッカー少年はあっちの方に兄弟やら友達やらがいてサッカーの後片付けをしている。困ったものだ。仕方がないので、おんぶしたまま奪った帽子をかぶっているマイちゃんを息子と一緒にひとまず学校の外に連れ出した。マイちゃんに帽子を取られないように、この中にはカレーが入ってるだの、中国全人民が隠れているだの、あれこれ説得しようとしたが駄目だった。
喉が渇いたので3人でジュースを飲んだ。息子はホットのレモンティー、マイちゃんはコーラ、お父さんはもちろんビックル。
「マイちゃんはおうちに誰かいるの?」
「お母さんはね、8時にかえるって」
「…そっかぁ。カギはちゃんと持ってる?なくしてない?」
「うーんとね、あるよ!」
先日、近所の公園に遊びに来ていたので、うちの近くに住んでいるのは見当がつく。方角も同じだからこのまま一緒に帰ろうか、などと考えていると、マイちゃんが「じゃあいこっか!」と歩き出した。大物だと感心した。
息子は自転車なので常に先を進んでいる。待ってよぉ、とマイちゃんが追いかける。息子、ちゃんと待つ。
うちの近所まで来ると、マイちゃんが息子の通学路から逸れて別の路地に入ろうとする。寄り道が多いと他の子のお母さんたちにまで目をつけられている息子は、学校帰りに決して通学路を逸れないよう妻にきつく申し渡されているので、心配顔で叫んだ。しかし、基本的に事なかれ主義の父は、まあ大丈夫とそのまま道を逸れ、息子は黙ってそれに従った。夕方になり、あたりが暗くなってきた。心配顔の息子をよそに、マイちゃんがかくれんぼを始める。隠れろというので、間に合わないので仕方なく電柱のふりをしたが、息子には見破られた。
やがて近所の公園が見えてきた。夏にマイちゃんと息子と妻で遊んだ公園だ。きっとこの近くに住んでいるのだろう。
「おうちはこの近く?」
「うーん」
「そろそろ遅くなったから、おうちに帰ろうか」
「うーん」
「おうちはどこ?(息子と)一緒に送ってってあげるよ」
「教えてあげなーい」
素晴らしい教育の成果である。顔見知りとはいえ、子供は簡単に自宅の場所など教えてはならない。親の留守中となればなおさらだ。とはいえ、このままでは困ってしまうのもまた事実だ。すると、マイちゃんが一件のアパートの階段をタタタと駆け上がり、われわれが目的地に到着したことがわかった。階段の上から帽子を投げようとして、やっぱりあげない、を繰り返すマイちゃん。帽子を取り返さなきゃ、帽子を取り返さなきゃ、とデヴィッド・リンチのパラパラ漫画に出る子供みたいに同じことを不安そうに何度も繰り返し叫び、駆け回る息子。
帰宅後、妻にマイちゃんのことを話すと、やはり心配だから今度から気にかけておくとのこと。他人の家だし、事情もあるから、いちいちおせっかいなことはしなくてもいいが、やはり子供が日曜の夕方まで学校にひとりでいるというのは心配だ。だったら、おうちの人が遅くなるときは、ちゃんと連絡してからうちに来て妻と一緒に編み物したりとか、あとなんだっけ、ゲルマニアみたいな名前のやつ、ああそうそうシルバニア。ああいうのとかで遊んでもいいし。そういう点では、苦労人の妻なら要領は心得たものだし、子供の扱いでは間違うことはないだろう。夕食に出かけたとき、自転車で近くを通ったのでマイちゃんの家の場所を教えておいた。
遊んでいる間中、ずっと「お父ちゃん」と呼ばれていたので、父はいつでも歓迎である。
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