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人格的欠陥

かみさんにメールですごいことを言われた。反省の意味をこめて真摯に受け止め、我が身を振り返る。

社交性のなさと社会性のなさはピカイチなのが自分て気がついてないとこもすごいよ。会社の人にもわかりにくいって遠回しに言われてるじゃん

私はどこ行っても問題なく友達もできるし、長く付き合ってるし。そっちは誰もいないじゃん

検証しよう。

社交性のなさ

社交性を計測するのは難しいが、この一ヶ月間に付き合いで何をしたか数えてみよう。

・会社の同僚と飲みに行く 2回

深夜の対応で帰れなくなったのと昼から何も食べていなかったのが理由で会社の近所の居酒屋で食事した。それから、最近iPhone用アプリケーションを開発することにした同僚の買い物に付き合って有楽町のビックカメラに行って帰りに食事がてら一杯飲んだ。実に社交的である。

・親戚の見舞いに行く 1回

持病で入院した親戚を見舞って、不便なのでイーモバイルでメールのチェックくらいできるようにしてきた。実に社交的である。

・お隣さんとホームパーティー 2回

月1回くらいのペースでやっている。もっとも自分から動くわけではないのでこれはカウントしない。

・友人に会う 1回

といってもyomoyomoと飲んだだけ。まあ、これは大変に社交的な活動だと思う。

結論としては、私は非常に社交的である。

社会性のなさ

これは常識のなさといったものだろうか。Wikipediaによれば、社会性とはギブ・アンド・テイクの関係だという。そういう意味では、おれのものはおれのもの、お前のものもおれのもの、を信条とするかみさんこそ社会性の欠落が甚だしいのではないかとも思うが、どうだろう。

それから、基本的な定義として、社会性とは

一般に一定の規範を有する社会において、これに参加する個人として円滑に他の構成員に受容され、かつ自己の目的を達成することができる性質のこと。

とされているわけだが、我が身を振り返ってみても、これといって社会参加できていないわけでもない気がする。どこでも相手にされないとしても、それだって円滑な受容であることに違いはない。無事その日をすごすという目標が達成できれば問題はない。

わかりにくさ

自分のわかりにくさについて検証するのは、もはや靴ひもを引っ張って飛ぶくらいの難易度だとしか思われないのだが、やってみよう。

・世論調査

会社で近くにいる人たちに「わたしの話すことは理解しにくいか?」と質問する。結果は、100%が「はい」で、その他の回答さえなかった。わかりにくさについては完全な裏付けがあることが判明した。

しかし、逆に、常にわかりにくいのであれば、少なくともわかりにくいということに関しては非常に明確かつわかりやすいのではないか。

友達がいない

私に友人はいないのか。そもそも友情とは何か。わからないことはすべてWikipediaに聞いてみよう。いわく、友情の最も弱い形体は「知り合い」であるそうな。なるほど、知り合いなら大勢いる。私の社交性の高さは際立っている。このレベルであれば相当有利な勝負が展開できるであろう。しかし、弱い形体のものが多く集まる薄利多売のようなモデルは基盤としては脆弱である。そこで、逆に友情の最も堅固な形体である(とWikipediaに書いてある)「生涯の親友」レベルの友人を獲得できているかどうかが勝負の分かれ目となろう。では、この「生涯の親友」とは何か。件の記事によれば

これは長期にわたり離れ離れになることがあろうとも、つながりが切れず、双方が無条件で信頼しあうような関係についていう。友情の絆の強さは相手のための自己犠牲というかたちで現れることも少なくない。

と定義されている。なるほど。無条件の信頼とはまたハードルの高い関係だ。条件もなしに信頼するわけだから、たとえ百万円で羽毛布団を売りつけられようと信頼が崩れてしまうようであってはならない。これでは無条件であることと無関心であることの区別さえつかない気がするが、それが真の友情というものであれば、納得するしかあるまい。

また、Wikipediaでは大衆受けするテーマ(男が女について知らないこと、とか)の本で成功した心理学者を引用して、友情の3段階というものを提唱されている。

心理学者のヘルプ・ゴールトバーグ (Herb Goldberg) は、友情は3つの段階を経過するという。彼によると仲間意識のひとつ前の段階が、友情だという。

    ゴールドバーグはまた第一の段階を、「役に立つ友情」と呼んでいる。どんな理由にせよ、双方に有利、有益なことをもたらしてくれる限り、繋がっていく友情である。
    第二のものは、「目的志向の友情」といわれる。なにか特定の目的があって、たとえば余暇に一緒に草野球、釣り、ゴルフなどを楽しむための連れというわけである。
    第三の段階は、文字通り「友情」である。特定の目標、目的、利用を追い求めることなく、ただなにかの機会に知り合って、互いによく熟知ししあったという友人。この関係の中での利害は伴わず、ただ友情それ自体が目的になっている。

「金の切れ目が縁の切れ目」から「下手の横好き」を経て、真の友情が生まれるという、なんだか寅さんのようなお話である。

いろいろ考えてみたが、申し訳ないけれど何の目的や利害もなく友人である人間など存在しないような気がする上に、無条件の信頼など無関心と何の違いもないという事実を鑑みて、私にはそんな友人などいないとここに断言することにした。そういう点ではかみさんのいうことももっともである。

総合評価では、4項目の内、2項目がかみさんの言い分を裏付けていることになった。つまり、The SmithsのReel around the fountainのように半分だけ正しいので、引っ叩かれても文句もいえない状態ということになる。

というわけでスミスのビデオ。

教訓としては、たとえひどい人格批判をされても、あまり自分のことは真剣に考えない方がいいということで、なぜなら真剣に考えるとうんざりするから。

Posted by on 3月 23, 2009 in life

Comments

  • k より:

    いちいちWikipediaを証人に立てるというところが理論付けとしては弱いような気がしてならない。

    例えば誰かがWikipediaに「友情とは血の出るような激しい殴り合いをしてからやっと生まれるものである」と書き込みをしていたらどうなっていたものか。

  • y より:

    本気でいってるわけじゃない、というのをWikipediaをいちいち引用することで表現しているのだ。わかりにくいのだろうか。

    しかし誰かがそんなことを書いていてくれたら、もっと面白いことが書けた気がする。

  • y より:

    だいたいAppleStoreじゃローン1%になってるんだ。かみさんの機嫌を損ねたいはずがない。

  • miho より:

    「車スピード出し過ぎ!」って注意したら逆ギレして「お前アスペルガー症候群だな?社交性もないし!」とかぬかすからメールしたんじゃないか。

    確かに自分から誘うことは少ないけど、長く付き合ってる友達はたくさんいるし、ママ友達ともよく遊ぶじゃん。

  • doronjo より:

    杜志だ。集めたレコード(懐かしいビニール臭付き)がすべて消去されてしまったらしい。。。ちょっといない間に。。。

  • y より:

    ところでまだ日本にいる?

  • doronjo より:

    もう戻って来ちゃったよ。また年末でも帰るから、その時はしっかり豆男を見に行くよ。

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