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無知

うちの前に福祉園という障害者施設があって、作業をしたり、ヘルパーの人と散歩したりする人たちの姿を毎日見ている。ときどき、嬉しいときに大声で叫んだりする人もいて、息子も最初は驚いたりしていたようだが、今ではすっかり慣れたようだ。バザーのときには、かみさんがクッキーなんかを買ってきてくれたりする。

ところが、ああいうところで売っているものを食べるのなんか嫌だという人も世の中にはいたりする。誰かがヤク中のオッサンみたいにだらだら涎を垂らして鼻くそでもほじりながらパンを焼いたりしていると思っているのだろうか。実際には、監督者の下でみんなが与えられた仕事をきれいな作業場でやっていたりするのだが、見たことがないから知らないのだろう。あるいは、いわゆる健常者が3秒以内なら落としたものでも平気で使っているようなひどいお菓子工場を知っているから、健常者のやることだから施設の人たちだってみんなやってるに違いないと思っているのかもしれない。それはそれで悪くはない考え方だ。

最近うちの近所でも老人施設の訪問が始まっているらしいが、障害者施設も近所の幼稚園や小学校と交流して、子供らに体験学習させているのはとてもいいことだと思う。なぜなら、お母さん連中の中には(お父さん連中の意見を聞く機会がなかなかないのでそれしかわからないが)、うちの近所の障害者施設のことをとても怖がっている人もいるようだから。

かみさんが要望を出していたが、まだ受け入れられていない。老人施設にしても、小学校に和室があるのでそこをサークルの茶室にしているだけで、実態はとても交流とは呼べないものだ。こちらもかみさんが意見書を出していた。

恐怖感というのは、それが実際に身の危険に関わる反応(高いビルから下を見下ろすと体がすくむ、歩道のない道路の脇を歩いて車が近づいてきたら立ち止まるなど)でない限りは、基本的に無知や蒙昧からくるものだ。これは差別にも共通するのだが、むやみに何かを怖がる人やあからさまな差別をする人は、その対象についての知識が極端に不足していることが多い。同性愛者を忌み嫌う人が持っている同性愛者についての知識は、テレビに出てくる不気味ないわゆるニューハーフくらいが関の山で、それどころか、同性愛者と小児性愛者を混同しているなど、お話しにならないほど実態とかけ離れたイメージしか持っていない。

もちろん、知らないこと自体は単なる生活の中での小さな過失でしかないのだが、どんな過失も長年続けていればブタ箱行きだ。

また、人間はおのれに都合のいい情報を積極的に収集するという、生活知というか、快適な生活のための無様な習性というようなものが備わっていて、無知や差別という自己省察を避けるためには嘘ばかりの情報を互いに交換し合って、障害者施設の食べ物は汚いだの、幼児にイタズラをする変態の同性愛者が大勢いるだの、そんな裏付けのない情報を溜め込んで恐怖に打ち震えるふりをして、形骸化してしまった精神生活をなんとか住める程度に保っている。つまり、飛び交っている情報の量は多いのだが、まるで話者と話者しかいないみたいに、お互いの出している情報はもはや別の次元の価値しかないものになっていて、そこで交わされているはずの会話の話題となっている存在の実態についての考察はもうどこにも入り込む余地がない。

ところで、互いの話を聞かないことについては知的な連中にしても同じことで、互いに論戦している右翼は左翼の本など読まず(表紙と帯と献辞と前書きの一部は除く)、左翼は右翼の本なんかバカをより深く知るための資料としてしか読まない、といったら、これも実態とかけ離れた妄言なんだろうか。

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Posted by on 2月 4, 2007 in Education, Family

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