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気に入らねえ

何の縁があったか知れないが、同じ会社に入ってきた若い連中がいる。最初は無邪気に元気で、まあ能力は少し足りなくても、それでもまあ頑張ってくれと思っていた。しかし、ある頃から彼らがどんどん生気をなくした顔になっていく。やがて、元気だった彼らも、用事を頼んでも怯えたような顔で目をそらしたり、しどろもどろに説明する手先がぶるぶる震えるようになり、数ヶ月後には鬱病だの心身症だのなんだのになって退職していくことになる。

そんなの珍しくもないという業界もあるだろう。俺の仕事も、まあそんなもんだ。だから、実際に直属の部下にも、こういう人はいた。いま思い返すと、つくづく悪いことをしてしまった。もちろん、なんとかしようとは思っていたし、出来ることはやった。でも、成果は最悪のものだった。俺だけの責任ではないのだが、少なくとも、俺とその周囲はその人が能力を発揮する可能性を潰した。これが現実であり、結果だ。

小飼弾の書くことで気に入らない理由は二つあって、一つは彼の書いていることは無闇な青春讃歌で、しかも「歳とってみりゃわかるよ青春の価値は」みたいな妄言であることなのだが、そういうのはプロ野球からだけではなくこの世から消えてしまって欲しい。で、もう一つは、可能性が発揮されるのは堪え難い負荷を克服した後だ、という無邪気なお題目で、甘やかされた中流みたいに命や死を軽んじた論法が繰り広げられていることだ。「俺は死にかけたけど、頑張ってよかったよ」「人間って案外簡単には死なないね」と、ここまではまだいい。でも、「死ぬより可能性がつぶれる危険の方が大きいのに、死ぬことを懸念しているのは喜劇だ」となると、冗談は顔だけにしろということになる。

彼と一緒に働いている(いた)人の中には、ものすごい負荷をかけてもなんとかやり通してしまうタイプの人間と、精神や身体(この2つは別々のものじゃない)に変調をきたして脱落した人間の2種類がいる(いた)はずだ。この業界では、別に珍しい話ではない。そして、何の偶然か知らないが、小飼弾の自己認識では彼は前者のタイプだったようだ。それはそれで御目出度い限りなので別に文句はないが、今やそんな彼も歳をとったし、ちょっと視点を変えてみることは出来ないだろうか。

例えば、もし彼が上司として職場で指揮を執っていたら、彼は前者のタイプの部下たちの可能性をどこまでも引き出すことが出来るかもしれない。商売繁盛、株価上昇、大変御目出度い。でも、その一方で後者のタイプの人たちの可能性は、間違いなく潰してしまうだろう。それどころか、相談に来た彼らに、

そこで考えを止められる、あるいはそこまで考えたところで息の根を止められるというのはかなり幸せなことではないか。

問題は、その後に生き残ってしまうことも多々あること。いや、確率から行けば、その方がずっと高いのだ。するとどうなるのか、「これ以上何もしないで死ぬ」ということが、「何かのために最適」という状態になるのだ。そのような状態を、私は「余生」と呼んでいる。

などと説教するかもしれない。自分の信じる変態でマゾな幸福論をぶちかますことで、己の正しさに光り輝くのも、ある局面では結構なことだろう。でも、ちょっと待ってもらいたい。可能性だなんだという前に、ずっと低いとはいえそれなりの確率で人が死ぬなら、それはシステムとして間違っていることなんじゃないだろうか。それに、コキ使っているうちにくたばった人がいたとして、その人の親御さんに「何かの為に死ねる(死んでもいいと思える)ということは基本的に幸せなことだと思う」などどふざけたことがどうして言えるだろうか。まあ、言うのは自由だし我々は世論と体制が許す限り自由である素晴らしい社会の一員なので、勝手にすればいいのだが、もし俺がそんなことを言われたら、「じゃあお前が死ね」と答えるだろう。

そういう意味で、この日記の人もとんでもない思い違いをしている。いや、この人は本当に自分が死ぬなんてことは想定していないのかもしれない。でも、

労働を強制されるのは最悪のことだが、死んでしまうぐらいに働けるなんて幸せじゃないか。というか、何かの為に死ねる(死んでもいいと思える)ということは基本的に幸せなことだと思う。

なんてことは、奴隷が奴隷に向かって話す、あるいは領主が奴隷に向かって言い放つ以外には口にしてはいけない言葉なのだ。何かの為に死んでもいい、と思うのは基本的には自己陶酔でしかない。己の想像世界の中で精一杯粋がるのも中産階級市民の大いなる自由の一つだが、死なれる側にとっては、なんとか死なないで済む方法はなかったのか、どうして死ななければいけなかったのかという終わらない問いだけが残されるものだ。奴隷だもんね、と言われたらそれなりの説明もつくだろう。でも、普通は人の自己認識はそうじゃない。

そう、小飼弾の書いたことで本当に気に入らなかったのは、彼が自己陶酔の中でどんな寝言を言い放とうが全くもって彼の勝手なのだが、世の中の人間にその寝言を当てはめていくと、誰かの子供であったり夫であったり親であったりする人間を、

実際そのころ、私は何度か自殺未遂もしている。そのころの私にとっては、それすら「壁を越える」方法の一つに思えたのだ。はっきり言って、莫迦である

なんて状態に追い込むことをいかにして防ぐのか考え、実践するのが正しいことであって、追い込まれた人を「死なない確率の方が高い」と誤摩化して丸め込んだり、そんな状態を生み出すシステムを是正したいと考える人の文章を引用して

この設問は、”depends on whom?”だけではなく、”depends on how old?”でもある。同じ人でも、それが人生のどのステージにいるかによって、どうすべきかの答えは変わってくるからだ。

とルー大柴みたいなご見解を述べることで「(才能、能力は)人によるよね」「歳食ってみりゃわかるよね」などと曲解してしまうのは間違っていると思うのだ。

最後に、小飼弾の署名も間違っている。正確には、Aging man with misguided fantasyだ。わかる人にはわかるように、これはレジデンツの歌詞だ。

結局つまらん冗談と駄洒落が言いたいだけなんじゃないか、と憶測される文章を書くことで小飼弾へのオマージュとする。

Posted by on 8月 2, 2007 in Work

Comments

  • Yuya Sakurai より:

    19世紀の大問題は貧困と悲惨の問題だったが現在問題となっているのは権力の過剰の問題である、とフーコーは言いました。しかし、日本では21世紀になって、再び貧困が問題となっているように思われます。たとえばワーキングプアやネット喫茶難民など。

    雨宮処凛が「プレカリアート」を問題として運動しているそのプレカリアートとは、労働環境が不安定で、故に将来が不安、故に生きづらさを抱えている人々のことを言います。プレカリアートという言葉で雨宮は、ニートやフリーター、ひきこもり、ワーキングプア、ネット喫茶難民、リストカッター、そしてネット右翼さえ視野に入れています。生きづらさを抱えている人々全てがプレカリアートだ、と。

    それは非正規雇用の問題とも言えます。日本の労働者人口に占める非正規雇用の割合は、3割だと聞いた覚えがあります。では翻って正社員の方はどうか? 八木さんが書かれているように、鬱病になったり、そうでなければ過労死するほど働かされます。私は以前郵便局で正職員として働いていましたが、郵便・貯金・保険と覚えることがとても多く、かつ客がひっきりなしに来るという忙しさで、数ヶ月で辞めてしまいました。しかし郵便局ではそれに「耐える」ことのできる人間が働いています。けれども、私の同期の一人は心療内科に通い、私の後に辞めました。それほど、正社員の仕事というのは過酷なのだと思います。

    今の職場の飲み会で「労働至上主義」や「労働原理主義」に反対だと表明し、ベーシック・インカム(最低所得保障)などの話をしたら、私の存在そのものを否定するかのようにボロクソに非難されました。労働至上主義とは、労働が一番の美徳であるという考え方のことです。私はそうした考え方を持つ人々に対して「働くことがそんなに大切なのか?」と問いたい。労働が一番の美徳だという考え方が、どれだけ人々を傷つけるか。ニートしかり、フリーターしかり、ひきこもり、ワーキングプア、ネット喫茶難民しかり。「働かなければならない」という考え方を押しつけられることで、私は傷つき苦しみ痛めつけられています。
    ベーシック・インカムは、そうした労働至上主義・労働原理主義に抗して考案された考え方でしょう。ウィキペディアによれば、ベーシック・インカムとは「「すべての個人に、無条件かつ普遍的に、生存を可能にする基本的必要を満たすと同時に生産=表現の自由を行使しうるだけの一定額の所得を給付する」所得保障の制度」のことだそうです。労働している・していないにかかわらず、ともかく月に一定額を国が国民に支払う。福祉(所得)と就労(労働)を切り離す、のだそうです。

    こうした考え方を人に言うと決まって人は怒り出します。そんなこと思ってみなかったことを言われて、「労働が一番の美徳である」という暗黙の妄信を覆されそうになるため、自己防衛的に、反射的に怒り出す人が多いです。しかし、現代は「生存権」すら脅かされる時代です。非正規雇用の人は労働環境が不安定、故に将来が不安、故に生きづらい、という点で。正社員の人はまさに過労死によって「殺され」たり、鬱病になったり、という点で。ワーキングプアやネット喫茶難民は生きるか死ぬかの綱渡りの生を送らざるを得ないほどに追い詰められています。社会の仕組みや制度やシステムや構造がそうなるように仕向けているからです。「格差社会は天然・自然現象ではありません。法律や制度の結果です。派遣法が改悪され、大企業の製造部門で派遣が増えてこうなりました。法律や制度によってつくられたものであれば、法律や制度を変えることによって改善することができます。」(雨宮処凛、福島みずほ『ワーキングプアの反撃』(七つ森書館、2007)101頁)現代日本では条件付きでしか生きることを許されません。「企業のため」「国のため」あるいは「社会のため」に役に立たなければ生存を許されない。「「何かの役に立たないと、生きていることを認められない」というのはおかしいんじゃないか。」(同書、141頁)
    何の役に立たなくても生きていていいのじゃないでしょうか。「生きている」、ただそれだけでいいのじゃないでしょうか。それじゃだめなんですか?と今の日本の国民に問うてみたいです。全身麻痺の人は確かに生きているということで「感動を与え」、誰かしらの役に立っている。けれどもそういうんではなくて、何の役に立たなくても「生きている」、それだけでいいのじゃないでしょうか。それすら許されないのなら、私は生きることを許されないことになります。ならば死ぬしかない。そんなのは嫌だ。だから、「何かの役に立たないと、生きていることを認められない」ということに対して反対します。
    また、ベーシック・インカムについて、ミクロに考えていくと、人は自給自足しなければならないという問題に突き当たりますが、しかしこの「モノ余り」の時代、機械が進化して生産性が昔の何十倍も上がった時代で、自給自足するだけならば、そんなに働かなくていいのではないかと思っています。

    ここ数週間考えていたことをぶつけてみました。生存権が生まれてまだ100年も経っていないですが、しかし「生きさせろ!」と叫ばなければならない現代日本。私は抵抗を続けたいです。社会に殺されたくはない。

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