T

ゾンビーノ

“ゾンビーノ デラックス版” (アンドリュー・カリー)

なんて素晴らしい映画なんだろう。

序盤のストーリーはこんな感じ。宇宙からの隕石かなにかの影響で、人が死んだらゾンビになってしまう社会がやってくる。ゾンビと人間の熾烈な戦争は、最終的には人工的にゾンビを無害化する装置を開発した人間側が勝利し、世界に再び平和が訪れる。やがて、郊外に住む中流の白人社会には家庭労働を無害化したゾンビに担わせるのが流行する。

死体がゾンビになるという、古典的かつゾンビ映画には絶対に必要な、それでいて絶対にあり得ないこの設定については、あえて50年代SFの陳腐な映像を使い回すことで曖昧にさらっと流されている。だが、ストーリーのメインはここにはないのだから、それで全然問題はない。やがて、学校のシーンになり、本編が始まると、これが50年代のアメリカ郊外を舞台にした映画だということがわかる。人々は学校でゾンビとの戦いの歴史や、ゾンビの恐怖に備えておくことの重要性をプロパガンダ映画により教育されている。あげくの果てには小学校の学外授業でゾンビに見立てた標的をライフルで撃つ訓練まで行われている。

最初に気づかされるのは、ここでの人間とゾンビの関係は、自由のない社会でひたすら恐怖政治の下で暮らしている共産主義社会の人々をゾンビのようなものと見なしていた時代(それが終わったとは言い切れないと思うが、まあそれは別として)のパロディになっていることだ。

主人公の少年ティミーが家に帰ると、とうとううちでもゾンビを買ったとお母さんに告げられる。近所にゾンビのいない家はないし、みっともないというのが主な理由なのだが、大量消費社会の病の象徴としてショッピングモールを舞台としたオリジナルのゾンビへのオマージュとして、この大量消費社会的無駄遣いは至極正当なゾンビ映画の視点といえる。

ティミーはいじめられっこで友達もいない。そんな彼が、ふとしたことからゾンビと心を通わせていくようになる。そして、物語は動き始める。ネタバレにならないように詳細は省くが、ここでグッときたのは、郊外生活者の家事労働に従事するゾンビに、どこか見覚えがあることだ。ゾンビは人間と同じような仕事をしている。でも、家族の一員でもなければ、給料をもらっている労働者でもない。ティミーはゾンビの無害化を一手に請け負う巨大企業から学校に派遣されたセキュリティ担当に質問する。「ゾンビは生きてるの?」この質問は、別の意味に置き換えることができる。つまり、「ゾンビは人間なの?」。そう、われわれが郊外の無害化されたゾンビに見覚えがあるのは、ゾンビたちがやっていることは奴隷労働であり、その扱われ方も奴隷そのものだからだ。人間とゾンビの断絶は、人間と奴隷の断絶のパロディとなっている。

そこで、事件が起きる。その事件も、奴隷の身に降り掛かる無理解や冷酷さが引き起こした悲劇と捉えればなお一層ストーリーに引き込まれていくだろう。もちろん、人が死ねばゾンビになるという社会の大きな矛盾が、悲劇的であれ喜劇的であれ随所にちりばめられ、それでいて主人公の少年の心の成長と、いつしかそれに歩調を合わせて勇気ある人々の心の中にも大きな前進が成し遂げられるのも感動的だ。ビルドゥングロマン、50年代的価値観の崩壊といったテーマもきっちり描き込まれている。

一家に一人のゾンビの時代という、思いつきの冗談みたいな話が、ここまで感動できる物語になっているのには驚かされる。必見。

Posted by on 6月 29, 2008 in Movie

Comments

  • K より:

    あ、これ面白いのか。今度チェックしてみよう。

  • admin より:

    奴隷解放の物語として、まじで感動する。

  • コメントを残す