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集合知と衆愚とKindle

Amazonのひどいレビューなら、それを集めてシリーズ本にするくらいならさほど苦労も要らないほどにたくさんあるのだけれど、あれが集合知であるかというと、おそらくそうではない。もちろん言葉の意味なんて使い方次第だから、そうであっても構いはしないのだけれど、ここは集合知の格好の入門書「みんなの意見は案外正しい」の受け売りで、そうではないということにしてしまいたい。というのも、「集団的知性」のような用語と同じようなものとして扱う場合、まさしくAmazonのレビューの状況だって集合知になってしまうので、この文章にとっては都合が悪いからだ。それに石原慎太郎もナチも群衆の英知の結果だと思い知らされるのはなんとも辛いではないか。

みんなの意見は案外正しい」の中で、著者のジェームズ・スロウィッキーはこの集合知を元ネタ本「狂気とバブル」のテーマ「集団的狂気」と対比される概念として定義しているようだ。いろいろな逸話をかき集めると、人間は集団になるととんでもない英知を発揮することもあれば、狂気としか思えないような愚行を盛大に繰り広げることもある。では一体何が人間の集団から英知を引き出し、逆に何が愚行に踏み切らせてしまうのか。

これは別に新しい問題というわけではない。むしろ古来からいろいろな賢い人たちが頭を悩ませてきたことだ。世の腐敗を前に、ある者は少数による指導体制を理想とし、また別の者は真の平等こそが英知を引き出すと夢想する。知的傲慢さや無知ゆえに「少数のエリートが愚かな民衆を指導する体制」に魅了されて道を踏み外したエリートなんて、あちこちで聞いたのでもはや代表的な例さえ思いつかないくらいありふれた話ではないか。

みんな大好きWikipediaにも、この「何が集合知と衆愚を分けるのか」という点についての簡潔な要約がある。Amazonのレビューをこの条件に当てはめてみると:

意見の多様性

これはどうだろう。レビューを書くのは少なくともある程度は読み書き出来る人に限られるし、Amazonにアカウントを作ったりフォームに文字を入力して登録するなど一定以上のIT関連のリテラシーが求められるが、それでも意見の多様性は十分に担保出来るかもしれない。しかし、だいたいレビューなんぞ書くような御仁であるからして、他人に教えを垂れようとふんぞり返った威張りん坊やお節介さん、文句を叫び散らしたくて溜まらない欲求不満型の人、ものすごく感動したので思わずその感動を世界中と共有したくなった感激屋さんばっかりである可能性もある。その一方で、資格や厳しい選抜を通ってきた人にしか出来ないことでは決してないので、能力のバラつきという点では多様ではある。この点は保留したい。

独立性

一方、こちらについてはうまく条件をみたすことが出来ないことがはっきりしている。既に評価している人がいるかもしれず、先に投稿された内容に影響されてしまうかもしれない。既に評価の高い他のレビューに意見を寄せてしまったり、思い切って逆張りして大勢の反感を買うことで注目を集めようとするかもしれない。大手小町やその他の相談サイトが集合知とならないのは、このような他人の意見のバイアスがかかってしまうことで個々の意見の独立性が損なわれてしまうことが大きい。

分散化

まあ、これは問題ないだろう。自宅で、職場で、ファミレスの片隅で、みんなそれぞれレビューを書いている。

集約

フリースタイルのレビューなので、そこから集合知的な総意となるような意見に集約することは難しい。かろうじて星の数を平均したり、ピアソン係数やら何やらでも使って調整するのが関の山だろう。例えば「札幌市で初雪が観測される日」や「東京の梅雨明け」といった明確な「正解」がある問いに対する答えを集約するのはそれほど難しくはないが、レビューというのはどれが正解というものがあるわけではないので、もう少し漠然としたものになるのは致し方ない。内容の傾向の分析手法はいろいろあるだろうから全く不可能ではないのだけれど、これといった手法が確立しているわけではない。

という具合に、4つしか無いチェック項目の内の1つしかちゃんとクリアしていないのだから、あんまりうまくいきそうもない。また、Wikipediaには記載がなかったが、この他にも集合知となるためには、参加者は正しい答えを出すことについて適切に動機づけされている必要がある。この点についても考慮すると、まず正しいレビューとは何かが不明瞭である上に、レビューする動機もそれと必ずしも関係があるわけではないのだから、Amazonのレビューを集合知と呼ぶのは問題があると断言しても構わないだろう。まるで古の哲学者のいうように、問いがちゃんとしてないから答える方はやってらんない、というわけだ。

ただ、Amazonのレビューよりも面白いことを測定できる装置が当のAmazonから出ているのは興味深い。Kindleは複数のデバイスやアプリの間でどこまで読んだのかを共有して読書をしやすくしてくれる機能があるので、このデータはすなわち人がどこら辺で読書を中断しているのかがわかる。またマーカーを引いたり読み返した箇所、読書のスピードが変化した箇所など記録しておけば、このような行動の蓄積こそが、まさに集合知的なレビューとなり得るのではないだろうか。ウェブやアプリの開発現場ではおなじみのユーザーの行動分析というやつだが、未来の作家や出版社はこの手のデータを元に作品の評価を分析することになるはずだ。Amazonで扱っている音楽だってそうなるのかもしれない。その結果、これらのメディアがどのようなものに姿を変えていくのかはわからないが、少なくともAmazonのレビュー欄よりは興味深いことになるだろう。

キャシー・アッカー『病がくれたもの』についてのあれこれ

2000年9月に書いた文章が発掘されたので再掲するよ。若さってすごいね。
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キャシー・アッカー『病がくれたもの』についてのあれこれ

 キャシー・アッカーをご存じだろうか。もうそんなに有名ではない人だから、知らなくても不思議ではない。私も個人的な付き合いはない。いや、なかったというべきか。アッカーは既にガンで亡くなっているのだから。主に80年代に活躍し、他人の文章を次々と自分の作品の中に放り込み、何もかもが巨大で手に負えない様相を帯びている現代の姿を異様なリアルさで描いていた作家である。デビュー作は『血みどろ臓物ハイスクール』(白水社)で、他にも数冊が邦訳されている。おそらくはその手法からであろうが、女バロウズの異名を恣にして、革ジャンとスキンヘッドと入れ墨というスタイルでひたすら「愛してちょ~だい」と叫び散らすかしましい作品群を生み出してきた、大変ユニークな怪人物である。残された写 真で私たちが見ることが出来るのはメイプルソープなどの名のある写真家によるものばかりなので、その風貌からはシャープでストイックな人間であるという怪しげな印象を受けるが、どこまで当てになるのかは分からない。個人的には是非とも読んでもらいたい作家なのだが、ジェーン・オースティンに同性愛が描かれないのと同じように、キャシー・アッカーにはまともなストーリーすらないので、その辺りは好みが別 れると思う。皆さんがそれぞれ本屋で立ち読みするなりして試してもらいたい。アート気取りのスノッブには、あの味は出せないだろう。

 さて、今回ここに訳出した『病がくれたもの(The Gift of Disease) 』は、亡くなる直前のアッカーが残した乳ガン闘病記である。従って、彼女の従来の作風とは一線を画す、というよりは似ても似つかないものとなっている。少なくともある意味では。それだけに、ひょっとしたらアッカーという作家のパブリックな側面 以外の部分がここに滲み出ているといえるかもしれない。原文はキャシー・アッカーの関連サイトを集めたリンク集で見つけて、このサイトから拾ってきた。

 なぜこの文章を訳してみようかと思い立ったのかを説明したい。

 私がアッカーのことを知ったのは、友人と出かけた図書館でアッカーのことを教えてもらったときだから、今から3年ほど前になるだろうか。何の予備知識もなかったが、デビュー作『血みどろ臓物ハイスクール』を手にとって読んでみて、すぐに気に入った。アイデア一発、勢いとノリと、それにあちこちからボコボコと顔を出す叙情性。そして笑い。当時バロウズを読んだことがなかったので、アッカーのこのテキストゴッタ煮本は、音楽におけるサンプリングという手法を文学にも活かす方法があるのではないかと漠然と考えていた私に、そんなアイデアはとうの昔に実現されていることを教えてくれた。自分のアイデアは決して新奇なものではなく、ちゃんと前人がいるのだということを知るのは気持ちのいいものである。従ってアッカーはそれ以来ずっと親近感を持てる作家として私の中で高い地位を占めている。

 そのアッカーが死んだことを知ったのは、後にバロウズを読むようになり、その訳者である山形浩生氏が自身のウェブに掲載している文章に目を通 していたら、そこで触れられていたのを読んだときだった。山形氏はアッカーに文字通 り女版のバロウズとして期待していたようで、 バロウズが最後に寂しさと後悔とにみちみちた原稿を遺していったことと並べて、アッカーが自分のガンを知ってどこかのインチキ・カルトのコミューンで死んだのはなんとも期待はずれだったというようなことを書いていたように記憶している。ようするに無責任なパワー全開で活動していた人が、死を目の前にして急にあわてふためくとは何事だ、今まであんたが破壊してきたものって何?あーあやつらもやっぱり人の子か、ということのようだった。それはそれで、まあそういう見方もあるだろうが、それにしても死に様にまでケチをつけられるのだから、作家という仕事も因業なものだと思わないでもない。

 死は、いくらそれを意識しようとしても、結局は一時的に自分の感情を制御できた気分を味わうことになるだけの、やっかいなイベントである。死に臨んで、人は突然、ずかずかと部屋に入り込んできた無礼者に、ほとんど身に覚えのない請求書を突きつけられるような目に遭わされる。 こういう言い方も出来るだろうか。何か決意するときや、普段思索をめぐらすときに思い浮かべるたぐいのメメント・モリ的な死と、実際に自身に迫る死は、恐怖の実感に質的な差がどうしても生じてしまうので、これらはほとんど別 の代物なのだ。この世という胡散臭いインチキ・カルトの中で、実際の死に直面したとして、そこであたふたしたところで他人にとやかく言われる筋合いもあるまい。たとえ彼女が自称ご立派なア~ティストであったとしても。

 であるからして、弁護もかねて死に直面したキャシー・アッカーの声を拾ってみようという気になり、今回こうして拙いながらも訳出したわけである。誤解しないでほしい。別 に彼女がハマッた代替医療がインチキではないというつもりなどは毛頭ない。だから、これを読んで、ああやっぱりキャシー・アッカーって甘ったれのバカ女だったんだな、という思いを強くするのも、それはそれでもちろん構わない。私はただ彼女の言い分にも耳を傾けようと訴えたいだけで、他にこれといった意図はないのだ。ただ、私はこれを読んで、結局アッカーはいろいろな人に囲まれているようで、実のところはロクな人に巡り会えていなかったんだなと、なんとも悲しいものだと思った。保険制度はめちゃめちゃで、オルタナティブの治療師たちなどにしか希望を見いだせない(少なくともアッカーのあまり洗練されていない知的・精神的風土においては)状況にあって、常に死に付きまとわれる人間に、そうでないわれわれが何を期待するのも無理というものだろう。それに、作家としてのアッカー像なんて所詮はただのイメージだ。生き様のロールモデルにするにはあまりに危うく、脆すぎる。 それは、たぶんバロウズにオルタナティブのアーティストにとっての可能性が全て見いだせるというわけではないのと同じで、自分の願望の投影した像に過剰な思い入れをしてはいけないということなのだろう。

 ちなみに、いまアッカーの受けていたセラピーの問題点を挙げた文章を探してきて読んでいるところだ。まあ、確かにこんなのはすぐにおかしいと勘づいて然るべきなのだが、それでもこの手のものから自分は安全な距離を置いていると思いこむのは危険なことなのだろう。

kobo touchどうなんですか?

iPadだと出来が良すぎるのか子供らが返してくれず、電子書籍リーダーに手頃なのがあると便利そうなので買いたいのですが、手元のepubで見栄えがどうなるか試せないので踏み切れません。

『ハッカーと画家』とPG論法

ポール・グレアムの「ハッカーと画家」読書会に参加した。もちろんこの本は以前読んだことがあったのだけれど、いつも「イエーPG!もっといってやれ!」 くらいのことしか考えないで目を通すだけだったので、これを機会にちゃんと考えながら読み直そうと思ったのだ。

読み進む内に気づいたのは、PGの論法というのは力強い説得力とド素人でもなかなかやらないような論理の大穴が対等に並んだ不思議な空間で、要するにあれはテキストの上であこがれのスティーヴ・ジョブズになろうとする試みなのかもしれないということだ。PGの語ることはビジョンだから、検証するのは別の人の仕事なのだろう。理不尽でありながら妙に納得できる、いじめられっ子の国の王様としてのPG。例えば、彼の語る歴史や経済の話はひどく粗雑で、具体的な数値も出てこなければ何か確たる理論の上に展開されているものでもない。当然、そんな適当なノリだけの代物の上に築かれる確かな思想的基盤などあるわけがないので、ひとたびPGが悪のりして話題をそっち方面に進ませると、読者が知ることができるのは、せいぜいいじめられっ子がプログラミングの世界から外を覗くとどんな風に見えるのかという断片的な情報にすぎない。抜群に優れたプログラマ、つまりハッカーは常識にとらわれない発想をすると彼は述べる。ハッカーはときには世の常識に反することを口走るかもしれない。世の常識に抗い、どこまでも信念を貫こうとするガリレオ・ガリレイに己の理想を投影するPG。しかし、それはそれで正しいのだが、例えば胆石になったらハッカー的発想で常識に挑んで新たな治療法を確立しようと意気込む医者より腹腔鏡下胆嚢摘出術のような堅実な治療方針を考えてくれる医者の方がありがたいのも事実だ。つまり、ハッカーが活躍する場は汎神論的にあまねくこの世の隅々に広がっているものではない。PGが話題にするとスベるのは、このパターンにだいたい当てはまる。

そういった欠点はときに目立ちすぎるほどではあるが、PGの魅力はおそらく別のところにあるので、本書はだからといって無視していいほどつまらない本では決してない。ただ、魅力的な語り口でついうっかり「PG論法」にとらわれてしまうと、うっかり真に受けて明日から会社で書くコードを全部Common Lispにしてしまうかもしれないので注意が必要というだけのことだ。それに、彼はビジョナリーではあるが、他人の金をジャブジャブ注ぎ込んでギャンブルするような不埒な輩ではない。Yコンビネーターで彼は己の勘を頼りに自分の金で博打をうっている(リスクが低くても投資は博打だという意味で)のだ。

そういった通奏低音のようなものは、PGの文章の下にいくつかの層を成している。世の中には常識にとらわれない発想の主が必要で、それを担うのは常識では評価されにくい人材、PGのいうところのハッカーであり、その手の人材を正しく評価して利益を最大化できるのはベンチャー企業だけで、Yコンビネーターはそんなお前らを大金持ちにする機会がやってくるのをずっと待ってるから、中学生で自殺なんかするなじゃないぞ。うん、そうだよPG、あんたのいう通りかもしれない。あんたが高校生でサッカーやり始めたらリア充になってヲタ人生の生き地獄から脱出できたってどっかで書いてたことは意図的に忘れて、いじめられっ子のみんなにPGの福音をひろめて自分の子供にはクラスのマニアックなやつを大事にするよう伝えるよ。

茶化しているようにみえるとしたらそれは誤解なので言い添えておくが、PGの書くこと全般に通じる、このような暴風の中で立ちすくむヲタ少年の魂の叫びみたいなのはおおいに評価されるべきだし、マッチョ主義がはびこるIT業界こそ実はPGによる意識革命を切に必要としている世界なのだ。だって見るがいい。口べたで鈍臭い部下のプログラマにいつも偉そうに詰め寄る上司の姿を。休み時間の教室で、グランドの隅で、体育館の裏で、あんなことばかりしていた人たちをみんなだって見たことがあるはずだ。当時はそれはいじめられっ子といじめっ子と呼ばれていたが、いじめっ子たちは大人になってもいじめられっ子を顎でコキ使う習慣を手放さず、会社でもそんなことを続けている。理想的な社会では、学校でいじめられていた人が大人になってその賢さでのし上がって偉くなっているはずなのだが、どこにも放映されない陳腐な人生というドラマでは、というか実際のところは、いじめっ子はいじめられっ子を探すのが天才的にうまいので、そんな会社には入っていないのだ。だから、PGの福音をIT業界にあまねく行き渡らせ、クラウドからほとばしる雷の閃光で元いじめっ子の上司が焼尽され、選ばれた3万個のUNIXアカウントだけが生き残る裁きの日まで、われわれはPGの祈りに似たエッセイを読み続けるのだ。

結論はない


Small Giants [スモール・ジャイアンツ] 事業拡大以上の価値を見出した14の企業

ビジネス書をたくさん読むような人間ではないので、比較してどうこういうことはできないが、面白い本であることには間違いはない。たぶん、買って損はしないだろう。魅力的な会社を作るには、企業文化が大事だよ、というお話。

本書に登場するのは、業種も規模も様々だが、いずれも株式を公開していない企業ばかりだ。また、いずれも業績は好調で、まだ創業者が率いているか、二代目や三代目くらいの若い企業という点も共通している。それと、大量に資金を集めて規模の経済を展開している企業はひとつもない。みんな本業であげた利益を再投資して身の丈に合った規模で居続けており、ページビューはありますがマネタイズの方法を探し続ける途中です、みたいなビジネスはやっていない。当たり前だ。他人の金で博打を打つような世界に企業文化もへったくれもないだろう。そんなわけだから、回収した資金を次の一手に突っ込み続けて、収益逓増から収益逓減に至るまでの数年間の内に社長の名前で成功の法則本を10冊ものして新進気鋭の経営者として政府諮問委員会に名を連ねるとか、そういった類いの成功談は本書には収められていない。

企業文化と聞いてメセナとかボランティア活動とかを思い浮かべる人は多いだろうが、実際のところ、公開企業の文化とは何だろうか。例えば、その会社ではソフトウェア開発が結構重要な業務であるとして、優秀なソフトウェア開発者確保のために、プログラマの執務は全て個室(まあ消防法とかもあるから、ガラスとかである程度囲った部屋っぽいものでいい)、電話は設置しないで、晴れた日には富士山が遠くに姿を現すようなパノラマ的光景の広がる窓が全員の椅子(もちろんアーロンチェアとか)から見えているようなオフィスに改築しよう、なんて企画が通るかどうか考えてみよう。もちろんここでは「ないない」と反応してほしいのだが、創業時からそうやってきたわけでもないなら、当然ながら通るわけがない。普通、公開企業であるなら、そんなものを作るためには、誰かがその費用対効果を説明する資料を作成して、上司に提出し、しかるべきチェックを通して、上司の上司…と階段をのぼって一番上の人も株主総会とか取締役会とかで足下をすくわれないよう説得可能な状態にしなくちゃいけないし、そんなことはどうひっくり返ったって無理なので、もっと落ち着いた企画、例えば大企業らしくいかに我が社の製品がエコであるのかを宣伝する映像をレセプションの前に設置された巨大なスクリーンに一日中垂れ流すとかの素晴らしい案(だって三菱電機もやってたし)が採用される。もちろん、企画書とかは業者さんが持ってきてくれるので心配ない。どちらが金がかかるかなんて考える必要はない。だって、サラリーマンなんですもの。

ところが、上に書いたような(そして本書に登場するような)非公開企業であれば、もちろん先立つものは必要だけれど、この程度の作業環境の改善なら、やってやれないことはない。なぜなら、これは費用対効果がどうこうとかいう次元の話ではなく、ソフトウェア開発会社であれば、自社のソフトウェアが重要なものである一方でソフトウェア開発を巧みに外注して成功した事例は天地開闢以来おそらく皆無なので、単純に自明のことだからだ。

だったらみんな当然やってるでしょ、と予想できそうなものだが、現実はそうではない。ですよね?そんな会社、見たことないもん。そして、本書に登場するような会社というのも、正直なところ、実際に見たことはない。

つまり、まとめると、本書に登場する企業というのは、ありそうでない、ある意味で夢のような会社ばかりだ。いや、実際のところどうなのかは知らない。だって、現実に知っている企業、知っている人々が登場するわけではないのだから。けれども、話を読む限りでは、決して非現実的というわけではないので、あっても不思議ではない。と同時に、経験的に考えると、あるわけがないともいえる。ややこしい。

本書の難しさ、あるいは結論の弱さもそこに原因がある。登場するどの企業にも、マジックがある。そこには美しい物語があり、ぜひとも働いてみたい環境の中で働く人々の生活が讃えられている。それでいて、決して現実離れしているわけではない。だって、少なくともそういう面があるというのは間違いなく現実なのだから。

普通、ビジネス書であるわけだから、単なる啓蒙以上に、直接的なアドバイスみたいなものがあった方が読み手もすっきりするだろう。成功のための10か条、とか何でもいいが、とにかく結論というものがあって、それに向かって走ればいいんだYO!と嘘でもいいからいってもらった方が楽だ。それがないのは、想像するに、自明のことを会社としてちゃんとやるには、相当に優秀な人が率いる組織でないと難しいからではなかろうか。本書に登場する企業はどこもある程度以上の成功を収めている。企業が生き残る確率の低さを考えれば、それだけでも相当にすごいことだ。しかも企業文化なるものを発展させ、従業員の幸福や働くことの意義といった問題までケアするようになるとすれば、それだけでも凄まじい成功といえる。つまり、企業文化だのなんだのってのが話題になり評判になるような会社を率いているほどに大成功した人を分析して、あなたたちみたいにすっごい成功する方法って何ですか?という質問に一冊の本で答えようとするのは、いくらなんでも無謀すぎる。簡単な結論なんかあるわけがないのだ。だって、その会社って本来の業務だってすごいんだから。

とはいえ、いくらすごいといっても、お前ら無能な凡人にはどーしよーもねーよ、というディストピア的ビジョンをまき散らしても仕方がないので、本書はそのすごい会社の姿をなるたけ丁寧に追いかけることで、真似できるならすればいい、くらいのことは教えてくれる。それだって相当に難しいことだろう。だから、それ自体が競争力の源泉となったとしても不思議ではない。そういう意味で、社員の生産性が上がったら、まあ褒美にちょっとくらい作業環境のことも考えてやってもいいよ、でもあんまり調子に乗るなよ、くらいに考えている人にはこんな本は読むだけ時間の無駄だ。そもそも、そのように考えている時点で自明のことが理解できていないわけだし、リクルーティングもまともに出来ないダメな経営者なのだから、成功者の真似などしても無意味だ。

以上、これに多少似たようなことを書いてアップロードしていたらデータが飛んでしまって、もうすっかりやる気をなくして、でもまだ微かに残っていた勢いでもう一度最初から書いたレビューでした。

View From A Hill

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届いた!

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DON’T PANIC

コンピュータのトラブルシューティングに適した性格とそうでない性格がある。まあ、態度というか姿勢といってもいいが、どちらも性格から出てくるものだから、ここではまとめて性格と呼ぶことにする。

仕事でいつも対応しているのはウェブアプリケーションのトラブルだから、ここではその話に限定する。プリンタが動かないとか、マシンが重くなったとか、そういった問題は全部再インストールすればなんとかなることだから何もかも忘れてリストアして遠くの店に昼飯でも食べに行けばいいと思う。

ウェブアプリケーションのトラブルといってもいろいろある。これまで実際に直接または間接的に経験したものでも、アプリケーションのレベルの単なる不具合から、日頃のケアを怠ったせいで累積した問題が(比喩的にいえば)爆発してサービスが提供できない状態になっていたり、はたまたデータセンタが文字通り火事になっていたり、とにかくトラブルの原因も現象も千差万別だ。

そんな日常の中で、唯一といっていいほど必ず効果的なトラブルシューティングの手法があって、この逆をやると間違いなく二次災害や余計な手間になったり、運が良くてもその場の人間をみんなうんざりさせたりするのだが、それは

パニくるな

という黄金律で、とにかくこれが出来ない人間は絶対にトラブルが発生した現場に居てはいけないし、対応するなどもっての他だ。パニックを起こす理由はいろいろある。その人が全財産を投資して構築したシステムが目の前で崩壊しているのかもしれないし、単純に持っているスキルでは何をしていいのか見当もつかないのでひたすら慌ててしまっているのかもしれない。たいした能力もなく気が小さいくせに日頃から威勢のいいことを言いふらしておのれの実力以上に自己宣伝しているので急に本番がやって来て追いつめられたのかもしれない。だが、理由はともかく、パニックを起こしても問題解決にはいっさい何も寄与しない。

それから、自分がパニックしているかどうかを自分だけで知る方法は、自分の足を引っ張って空を飛ぶのと同じ要領で、つまり存在しない。だから、トラブルが発生したときに「ちょっと黙っててもらえますか?」「うるさい」などの言葉を投げつけられたり、トラブル対応中の人に何か質問しても無視されたら、これは自分がパニックしている証拠だと考えなければいけない。もちろん、そんなことを考えられるくらい冷静なら、そもそも文句などいわれないしパニックなど起こしてはいないので、結局は何の意味もないのだけれど。

ジーン・ウルフの短編によれば、未来世界でも「はた迷惑な人」をなんとかする薬は発明されていないそうだ。さもありなん。

この冬の読書記録(2)新しい太陽の書

“拷問者の影(新装版 新しい太陽の書1) (ハヤカワ文庫SF)” (ジーン・ウルフ)

写真入りでは紹介できないくらい、気恥ずかしくなる表紙で再発されたジーン・ウルフの長編。しかし、“デス博士の島その他の物語 (未来の文学)” (ジーン ウルフ, 伊藤 典夫, 柳下 毅一郎)に満足した人なら、中身は問題ないだろう。ちょっと安易な筋書きが見え隠れするのを我慢出来れば、の話だが。散文家、という言い方があるのかどうかは知らないが、凄まじく入り組んで不可解かつおぼろな手がかりしかない状況を描きながら、それがハンス・ヘニー・ヤーンの“十三の無気味な物語”のように、決して荒唐無稽とは思われないようにすることができるのは、希有な才能というべきだろう。

うーん、例えば。ある女がいて、彼女には過去の記憶がない。しかし、自分が処女じゃないと思っている。なぜなら、自分は傷つき疲れて眠る男の側で一晩中起きていて、それで満ち足りることが出来るから。男はその話を聞いて、納得する。こんな描写があるわけだが、この心理の文化的バックグランドが何なのか、理解するのは難しい。それでいて、これだけの内容でもって読者にこのような心理、考え方が人々の脳裏に想起している世界の存在を実感させる。そういう書き手なのである。

この冬の読書記録(1)神聖喜劇

この冬の読書記録その1。

“神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)” (大西 巨人)

『神聖喜劇』の題名

確かバーナード・ショーの書いていたことだったと思うが、喜劇の構造に「ある共通の価値観を持つ集団」の中に放り込まれた「精神的な異邦人」という典型がある。アイルランド人であるショーがイングランドの貴族社会の人々の偽善を皮肉に描く作品を残したように、あるいは後に不当にも犯罪的性的倒錯者として獄死する投獄されるオスカー・ワイルドが周囲の文化的偽善を小馬鹿にしたブラックユーモアに満ちた警句を数多残したように、自分以外の人間たちが当然と思い込む事柄に疑問を感じるのは喜劇の始まりとなる(ときに終わりが悲劇となるにしても)ことも確かにあるらしい。

一枚岩として行動する人間を作り出すためにある軍隊の教練に、何かといえばすぐに長大な恣意を巡らせて、文字通り逡巡する哲学者的人間を放り込めば、噛み合ない両者の行き違いが滑稽さを醸し出すのも当然であろう。ショーであれば、それを「人と超人」のような愉快な喜劇としてまとめあげるのかもしれないが、大西巨人の本作では徴兵とその先に待ち受けている戦場の暗い影が常にどこかに見え隠れする新兵教育の対馬が舞台となっていることもあり、確実に喜劇としての物語構造を有しながら、その喜劇的なやり取りが時に尋常ならざる荘厳さ、人間性をもって迫ってくる。ほぼ確実なる死を前に、知識人としての使命であると認識していた反戦運動に破れ、まだ青臭い虚無主義者として「この戦争で死ぬべき」自己を実際に死の予感に満ち満ちた軍隊に置くことによって、これまでそこにありながらあえて意識にものぼらなかった自分自身のいわば生への意志と和解していく。そんな意味合いにおいて、本作の題名は神聖であり喜劇である。ダンテの『神曲』における何やらと強引に結びつけた解釈も可能かもしれないが、どちらかといえば上のようなことを連想させられた。

『引用、繰り返し』

小説としての『神聖喜劇』の目立った特徴は、まずなんといっても異様なまでの引用の多さだ。何せ、古今東西、非常に数多くの文学、詩文、報道、社会思想書などなどが主人公の連想として次から次へと登場する。その量たるや、お恥ずかしいことにほとほと困って正直なところいくつかの漢文などはストーリーの先を読みたいあまりさらりと流してしまったほどである。しかしながら、読書に淫するいじけた似非知識人の衒いが悪臭ぷんぷんたる、などということは全くなく、逆にうまそうな料理のたくさん載っている本を読んで腹が減るように、さらなる読書へと誘うようなものでもなくはない。

また、元は新聞雑誌への連載であったという性格もあってか、先に書かれたのと一字一句違わない主人公の心理描写が複数回登場するのもひとつの特徴だろう。原稿用紙にして5千枚弱という大作なので必要に駆られてのことだったのかもしれないが、繰り返しによりストーリーにアクセントや新たな緊張感が醸し出されるという効果もあり、また、本作のアウトラインである「異常なほどの記憶力を有する主人公が、たとえ『ごまめの歯ぎしり』を自覚しつつも、その能力でもって超形式主義的な軍隊組織に立ち向かう」に照らし合わせると、一字一句違わない心理描写の繰り返しがまさにこの主人公の能力や心理そのものを滑稽なまでに忠実に描写しているかのようで面白い。

『再び喜劇』

滑稽なまでに、とつい先ほど書いたわけだが、この異常なまでに忠実な描写による滑稽さは、例えば第二部の性描写にもあてはまる。これはあくまで邪推なのだが、出版物たるもの、やはり売れないことにはどうしようもない。売れる本といえば、即物的な考え方かもしれないが、やはりエロである。性の描写を巧みに織り込むことはベストセラーにおいて欠かせないテクニックであり、それでこそ売る側もハッピー、買う側もハッピー、仲介業者もハッピー、となるわけだ。著者自身、それを知らないわけではなかろう。思い入れの深い作品であれば、売れてもらわなければならぬと思うこともないわけでもないだろう。わざわざ巻末の解説に瀬戸内寂聴を配して構成される、主人公が徴兵される直前に広島の料理屋「安芸」の未亡人との情事が語られる第二部は、本作全体の中で性についての記述の大半が押し込まれた一冊となっている。しかし喜び勇んで本書を手に取る読者が目にするのは、「男の無骨な指先の下で彼女の白い柔肌が打ち震えるのであった」といった貧乏臭いベッドシーンではなく、そのかわり、異常な記憶力とこれまでに読んできた文学作品がすぐに連想の中に延々と現れる妙な体質の男が、研究者のように己の行為を観察しつつ思い起こす、どぎついだけに余計またその律儀な描写が滑稽な、そんな場面の連続である。なんというか、一種の清々しさを覚える。

『長くなったのでまとめると』

前にも書いたが、ヘンリー・ミラーいわく、ドストエフスキーの作品の内、いくつかは老後のために読まずに残しておくべきなのだそうだ。本作も、そんなくらいの価値のある長編に数えられても何の不思議もない。読み終わって、ああまたせっかくの良書を既読の作品リストに入れてしまった、という快楽主義者なら誰もが知っている満足と後悔の混じり合った感覚を味わった。

『君のためなら千回でも』

楽天レンタルでDVDを借りてみた。でも一か月無料のお試し期間を見込んで申し込んでも届くまでに一か月近くかかってしまって意味がなかった。困ったものだ。品揃えもまだまだ。

借りたのはこれ。

原作が非常によかったので期待半分、上下巻組の長い作品を1時間半程度の尺にどうやって押し込むのかは、本人も作家であるという脚本のデヴィッド・ベニオフの腕の見せ所だったのだが、ううむ、ニューヨーク育ちの脚本家にはいまいちどう扱っていいかわからない作品だったようだ。というと意地が悪い気もするが、それもひとえに原作が面白かったせいであり、思い入れのある箇所がどう料理されているのか楽しみにしていた分だけ文句が出てしまうのも仕方がないところ。ドリームワークス作品とは知らなかったが、良くも悪くもそのせいでかっちりしたつくりになっている。やっぱり家族向けにあんまりひどいシーンは出さない方針だったのだろう。

割と淡々と省略気味のストーリーが原作に忠実に続くので、ちょっとした感動作にはちゃんとなっている。でもタリバンに銃撃されるシーンなどは、アクションシーンの少ない映画なのでちょっと原作を変えて入れてみましたとでもいいたげな感じで、一気に現実感が薄れてしまい残念だった。

とはいえ、ハッサン役の子供(アフマド・ハーン・マフムードザダ)が非常にかわいらしく、彼を見ているだけで泣ける。あと、原書を読んでいないので、ああここはこういうセリフだったのか、という楽しみはある。

原作はとにかくよかったのでおすすめだ。繰り返します。原作は非常によかったです。ここ試験に出ます。拷問されるか読むか選べといわれたら、遠い故郷のこととかいろいろ考えてから覚悟を決めて、読む方を選びましょう。

お前みたいな甘やかされた中流育ちにこの厳しい現実に生きる人たちに共感なんか出来るかよ、という意見もあるかもしれないが、出来るに決まっている。俺たちは虫けらだろうが外宇宙人だろうが、理解可能と思えたものになら何でも共感する。それが不満なら、共感の意味についてよーく考えてから、素振り100回してこればいいと思う。

著者は移民二世の内科医とのこと。やっぱり移民二世は親の期待を背負って猛勉強して医者か弁護士になる、というのは単なるステレオタイプじゃなくて現実みたいだ。作品の中では主人公がすんなり作家になってしまうあたり、著者のちょっとした主張が垣間見える。